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■藤坂泰介

                   清水 信博 2000.0616

■藤坂泰介

 1973年から、私達を指導してくれる偉大な先生との出会いがあった。
 藤坂泰介。

 藤坂は広島で生まれた。一時期は共産党員として活動したために投獄に
もあった。ところが、獄中では誰も面会にも来なかった。
 
 やがて出所することになるのだが、家路に向かう途中で講演会が開かれ
ていた。それは亀井勝一郎だったか。「人間主義」という講演会であった。
 そこで見聞きしたものは、これまでの自分を洗い流してくれるような話
だった。いたく感動して、以来、「人間主義」、「人類ヒューマニズム」
でいこうと藤坂は決心することになる。

 その後、戦争も悲惨さを極めて、やがて終末をむかえる前夜。

 広島に、「原爆」が投下された。

 陸軍報道班員であった藤坂は、原爆の被害を取材すべく、投下直後の広
島に入ったがために、被爆してしまう。翌日からは、歯が数本づつ抜け落
ちて、最後に前歯だけが一本残った。その後、死ぬまで入れ歯はしなかっ
た。
「この、残っている一本の歯が原爆の証明だ」。
 と、常々、語っていた。

 やがて、デザインの特技を活かして、二科に属し、東郷青児に目をとめ
られて、独自のパピエコレ(貼り絵)の世界を広げていった。
 広島の「酔心」、野村證券、初のワンカップ(旭菊水)の開発、湯布院
の温泉旅館等々、デザインの世界では経営指導も含めて素晴らしい業績を
築いていた。

 その藤坂が卒業アルバムの企画、デザイン、指導の世界に足を踏み込ん
だ。経緯は詳しくは知らないが、やがて私達と出会うことになる。

 当時、大阪で設立されたばかりの印刷会社が、数年で驚くばかりの企画
力・宣伝力・デザインで日本一の会社になった。それが、いまの「D社」
である。藤坂は、D社の当時の松本社長に請われて、入社し、古い体質の
業界に新風を吹き込み、全国に次々とファンを作っていった。

 私達もD社の斬新な企画、品質は脅威だったが、それが、いったい誰が
考え、どのように展開しているのか、その舞台裏は全くわからなかった。

 7人で始めた会社が、十年ほどで全国一になる。
 それは、当時は考えもできないことだった。

■師匠との出会い。

 当時、私達の会社博進堂は新潟市ではあるが、地方の小さな印刷会社
にしか過ぎなかった。卒業アルバムの製作は冬場がピークであるが、夏場
は暇で、それこそ野球でもやるか! というレベルの会社だった。

 いい仕事をする熱意はあるが、ここままではダメだという秋田県のお客
様が藤坂を連れて新潟までこられた。

 その最初の面会の時。
 いままでの、D社の企画、デザインの謎が全て解けた。
「この人が、すべての頭脳であり、仕掛けをやっていたのだ」。

 言葉すくなに語る藤坂を見て、秋田のお客様は、
「私の役目は、終わったようだから、これで帰ります」。
 といって、秋田に車を走らせた。
 お客様はありがたいものだ、と当時の経営者は痛感した。

■伝える、伝わる。

 やがて、藤坂の指導のもと、博進堂は企画・デザイン・出版で見違える
ような作品を次々と世の中に出していった。全国名刺コンクールの受賞で
は常連になり、あたらしい印刷表現、製作システム、MG,マイツールの
紹介も加わって、全国に名をとどろかせた。

 そして、藤坂先生は1987年1月に広島でぽっくりと亡くなった。

 さて、その藤坂先生の意志を正しく継いだのは誰かということを、私は
話したいと思う。

 当時、藤坂先生は毎月、広島から新潟に十日間ほど来ていた。
 往復はいつも夜行寝台列車と決まっていた。
 本人が飛行機嫌いということもあったが、大阪発の夜行寝台なら新潟に
着くのは早朝5時半である。帰りは夜中の十一時の「きたぐに」だった。

 この到着と出発時間ならば、社員に迷惑をかけずに行き来することがで
きる。そう考えていたのだろう。

 私も、見送りに行ったこともある。
 当時、社長だった長男は、出迎え、見送りは欠かさなかった。

 藤坂先生が亡くなる少し前だっただろうか。
 幹部社員の泊まりこみ研修があった。
 そのときに、藤坂先生は、こんな話をした。
「私が広島の家に着くと同時に、いつも社長から電話があった」。
「先生、いつもありがとうございます。お疲れではありませんか」
 と。

 そして、
「他の人からは、誰も電話をもらったことがない。この十数年間、社長
だけだった。君達は、そういうことは知らないだろう」と、言った。

 また、全国縦断のゼミが東京や仙台で開催されて、全ての行程が終わ
ったあとの打ち上げの時に、社長が藤坂先生の部屋に呼ばれた。

 打ち上げの楽しさの中で、何だろうと思って部屋に行くと、博進堂の
作品がズラリとテーブルに並べてある。
 それを、一つづつ説明しながら、
「これは、ここの線がダメ。この文字とイラストの位置が悪い」
と、数時間に渡って叱られたそうだ。

 藤坂先生は、どんな時でも手を抜くな、常に備えるということを若き
経営者に伝えたかったのだと思う。
 その藤坂先生も、亡くなってしまった。

 今でも、藤坂先生に似たような文字を書く者もいる。似たようなデザ
インをする者もいる。著書も残っているから藤坂イズムは継承されてい
るように見える。

 しかし、私は400人とも600人ともいえる、十三年間の藤坂先生
の指導を受けた者の中で、本当に継承したといえるのは、当時の社長、
つまり長男ただ一人ではなかったかと思う。

 教える、教わるという関係は、どこにでもある。
 テクニックも真似ることができる。
 しかし、思想的なものまでもとなると、一対一の勝負のようなものだ。

 師匠から引き継ぐのは、何千人いようが、一人しかいないように、本
気で継承するのは至難の技かもしれない。

 その長男は、いまは、「街づくり」で活躍している。

 もう、卒業アルバムは忘れたかのように違った分野に行っているが、
藤坂イズムの、「人間主義・人類ヒューマニズム」は、いまでも彼の心
の中に流れている。

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